客足が少しずつ増えてきていた。
相変わらず俺は,安酒場のカウンターにへばりついている。早く帰ったところでボロ家には何にもありはしない。食うものも,飲むものも,もちろん,待っている奴も。
熱い息に少し笑いが混じる。まだシモンが家に帰っているはずはないのだ。あいつは俺との約束を破ったことがない。
黒い酒をひとなめひとなめ,時間と酔いを持てあましながら,ただ無為にスツールを占領している状況。ああ,顎が痒い。髭が伸びている。何も食わなくても,どうしてこういうのだけは伸び続けるんだ?鬱陶しいそれを撫で回して,半眼。
ばたん,とデカい音がして,酒場のドアが開いた。通りの人声が一瞬大きく聞こえる。
「・・・!!」
入ってきたのは黒い髪を腰まで伸ばした女。いや,女というにはまだ若すぎる。手足ばかりはひょろ長いが,胸もねえ,ガキの範疇に入るそいつは,ここの三女だ,たしかキヤルとかいう。買い出しに行っていたのか,ほうぼうの店の茶袋を抱えたまま,なぜか八重歯をむき出しにして俺の方をじっと見つめている。
なんだいったい。俺に気があるってか?俺は呆けた顔でそいつを見つめ返した。視線は相変わらず動かず,どうやらこちらを見ているのは間違いではないらしい。だが確かこいつはシモンより年下じゃなかったか。背格好こそあいつより大きいが,ガキに好かれても嬉しくも何ともねえ。
・・・とはいえ,今は女日照りだ。
思い直した俺は顎に手を当てたまま,愛想のいい,伊達男風の笑顔を作る。よく見りゃ幼いながらも黒目がちな瞳,勝ち気そうな顔も年齢と相まって魅力的といえないこともない。ガキは範疇じゃねえが,向こうから来てくれるなら,諸手をあげて歓迎してやろうじゃねえか。
なおも動かないキヤルに手でも振ってやろうかと思っていたとき,ドアの音に気付いたのか,奥からキタンが顔を出した。
「おう,キヤル帰ってきてたのか」
「・・・兄ちゃん!!何でこんな奴店に入れてんだ!」
きん,とした声が店中に響く。ガキが精一杯目をつりあげて,怒りをまき散らす。その指の先に居るのは,俺,だ。その場の少ない客どもが,ざわ,という空気を発する。
「キヤル,お前何言ってんだ」
「何言ってんだはこっちの台詞だぜ?塩撒いて追い出せよ!」
「・・・おいてめえ,誰の話してんだ」
突然敵意むき出しにして,何の冗談だ。ろくに話したこともねえ女の,しかもガキに,「こんな奴」呼ばわりされて腹のたたないはずがない。前髪を跳ね上げて睨みつけ,多少の威圧を期待して,俺はカウンターをどん,と叩く。
「おうおうおう,黙って聞いてりゃ,客に向かってその言いぐさは何だ!訳もねえのに因縁つけてくるたぁ,どういう了見だ?そうやって金でもとろうってのか?ああ?」
こちとら声にだけは自信がある。ちょうどいい,さっきから少しむしゃくしゃしてたところだ。外の路地にまで響かせて,ちんけな店の評判を落としてやろうじゃねえか。安さだけが売りのこんな店,悪い噂の一つも立てばあっという間につぶれちまわぁ。
だが俺の言葉に怯む風もなく,そいつはずんずんと近づいてくる。だん!と俺の前に止まったと思うと,買い出しの袋をカウンター奥へ投げ飛ばした。
「訳はあんだぜ駄目男!おまえ,カミナだろ!シモンの兄貴分なんだろ!」
物腰もそうだが,言葉遣いも少年じみているくせに,音だけは甲高い。耳障りな声で,聞き慣れた名前を叩きつけられる。
またシモンか。カウンターに握り拳をおいたまま,苦い笑いが俺の口元に走った。
よくよく今日はあいつの名前を出される日らしい。あの野郎,俺の知らないところで随分と名前を売ってんじゃねえか。
「やめろ,キヤル!」
「何でだよ!兄ちゃんだって知ってるじゃないか。こいつがどんなにひどいか・・・!」
投げられた数個の袋を奥であたふたと受け止めていたキタンが,それでも妹を制止しようと声を張り上げるが耳も貸さない。髪を逆立てんばかりの勢いで,小っさい顔をつきだしてまくし立ててくる。
「シモン,あいつ,会うたびにいっつもボロボロになってんだ。疲れた顔して,傷跡だらけで。なのに,通りがかると必ず手伝いしてくれる。ウチはオレたち兄妹だけでかつかつだ。男手が足りないからすげえ助かるんだぞ!そのくせ金も物も要らないって言うんだ。聞いたらお前が止めてるんだってな!」
ひょろい手足を踏ん張って,ネコの牙みてえな八重歯が光る,今にも噛みつきそうに。
良く口が回るもんだ。腹の中がどろどろと渦巻いてくるのをよそ事に感じながら,俺はいっそ感心する。
それにしても,あいつ。シモンのやつは。グラスを持つ手が少し白くなる。ちり,と胸の奥が鳴る。俺に黙って,こんなところで無駄な体力使ってやがったのか。
「アニキに知られたら怒られるからって。なんでかわからないけど,こういう風に働くの,アニキがすごく嫌がるから,普通に働いて稼ぐのも駄目なんだ,って」
キタンの野郎もこっちをじっと見てやがる。妹がこんなに言うぐらいだ。この男もシモンの事で言いたいことがいろいろあるんだろう。さっきも何か言いかけてやがったからな。
「何か役に立てることあったら言いな,って言ったら,じゃあ時々,シャワーだけ貸してくれって・・・」
ほんの少し勢いが鈍って,拳を固めたキヤルは視線を下に落とす。ああ,おまえぐらいのガキでも,それがどういう意味だかわかってるんだろう?おまえの兄ちゃんはもっと良くわかってると思うが。
「・・・オレさっきあいつに会ったんだぞ。またどっかの獣人と一緒だった。・・・兄貴は家で寝てるって,具合が悪いんだ,って!あいつの方がよっぽど具合悪そうだってのに!それなのにお前はっ」
続く言葉は想像できた。
それなのに俺は,こんなところで酒浸ってごろごろして,か?弟分に働かせるだけ働かせて?
がちん,と手の中のグラスをカウンターに強く落とす。
むくむくと俺の中で膨らむ黒い感情。底にわずかに飲み残した酒より,もっと黒くて煮えたぎる,どろどろしたものが今にも噴きだしそうなのがわかる。
「・・・ガキがぎゃあぎゃあうるせえんだよ・・・」
喉の奥からずるずると,感情が引き出される。普段なら聞き流すような状況だった。聞き流して,やり過ごして。都合の悪いことなんか,笑ってかわすのが俺の本分だったはずだ。ガキのたわ言に付き合うような馬鹿はしない主義。
酔いが手伝っていたのは確かだ。そしてこいつは何しろ女だ。口ばかり達者でも力で俺に叶う相手じゃないってことが強気を助長した。
だが何よりも俺を刺激したのは別のこと。
俺の知らないところで,シモンが勝手に働いていた。それが目の眩むほどの怒りを俺に与えたのだ。あいつが,俺の言うことに背いていた,その事実が。
目の前の奴がまた何か叫び出そうとする,それを遮ってゆっくり立ち上がる。立ってしまえば,圧倒できる身長差。良く磨かれた床の上,キヤルが一瞬ひるんで後ずさるのが映る。それを見てとって,俺は鼻で笑ってやった。
「あいつと俺との間の事だ,てめえに何の関係がある・・・?」
全部全部あいつの望んだことだ。死ぬまで俺についていくって言ったんだよあいつは。
「シモンは,俺の持ち物だ。どう使ったって俺の勝手なんだ」
あいつは,俺のためだけに居る。俺の事だけ考えて,俺だけ見てりゃいいんだ。
「他の奴の為に働く必要なんてねえんだよ。だから外でなんか働かせねえ。俺の知らない場所でなんか」
「な・・に,言ってんだよ,おまえ・・・」
じりじりと,俺が歩を進めれば進めた分だけ,相手は後退する。こいつの目に俺がどう映ってるのか知らねえが,そんなに見開いたら目がこぼれちまうんじゃねえか?ああ,怯えた色,こぼれ落ちそうな目,重なってくる誰かの顔。
シモン。
シモン。
いつからそんな目で俺を見るようになった?俺がほんの少しでも不機嫌になれば,びくびくと怯えた目をして。
お前俺に隠し事してたんだってな?俺が駄目だって言った仕事をしたんだって?
ひくり,と口元が痙攣する。抑えようにも抑えられない怒りの発作。
まともな職になんてつかせねえ。器用なお前が手に職つけたら,どうなるか。十中八九俺のとこから消えちまうだろう。
自立なんかさせてやらねえ。仲間も友達も作らせねえ。
獣に体を売る,それだけが盗み以外で唯一許せる商売。お前が絶対に愛着を持てない仕事をさせる。お前は獣人を恨んで憎んで,そして俺の所に戻ってくるだろう?
お前には俺しか居ねえ,って刻みつけるために。可哀想な可哀想なシモン。獣野郎に弄ばれるたびに艶を増して帰ってくる。それが俺を焼け付くように苛むんだよ。
乾いた舌が唇を舐める。床に足をひっつけて,目の前の人間がずりずりと後じさっている様を見るのが心底心地良い。
お前が悪いんだよ。
俺を堕落させたのはお前だ。だからお前は俺から離れちゃいけねえんだ。
シモン。俺は,お前を,死ぬまで離さねえ。
最後の方の言葉は,俺の頭の中だけでしゃべっていたのか,口に出していたのか,自分でもわからなかった。ただ俺はゆっくりと腕を前方に突き出して相手の両肩を掴もうとしていたのであり,高い女の悲鳴が瞬時に空間を引き裂いた。
混乱する。
ちがう。これは,シモンの声じゃ,ない。
「キヤル!厨房行ってろ!」
弾かれたように黒髪が舞って,奥へ駆け込むのが目の端に映った。
と同時に,俺の耳に,突然全ての音が戻ってくる。路地の喧噪,店内のざわつき。我に返れば,いつの間に割り込んだのか,怒りに満ちた男の顔が眼前にあった。金髪を逆立てたキタンの額には,むくむくと青筋が浮かんでいる。
「・・・悪かったな,カミナ。仮にも客分にあんな口たたいちまって。これは兄貴の俺の責任だ」
てめえらの事に口出す筋合いは確かにねえよ。
視界いっぱいにおさまるキタンのでかい体。抑制した口調は大人しいが,内容とは裏腹に,漏れてくる息が荒い。爆発寸前の怒りを歯で噛みしめて止めているのがわかる。動かない俺をじっと睨みつけたまま,奴はカウンターに手を突っ込んで何かを取り出した。
「詫びと言っちゃあ何だが,これ持ってけ」
ぐいと突き出されたのは,陶器の瓶。コルクで栓をされたそれから微かに漂ってくる,酒の匂い。さっきまで俺が舐めていたのと全く同じの。胸にぐいぐいと押しつけられて受け取ると,ずしりと重い。なみなみと入っているのだろう。一週間飲んだくれてもおつりが来そうな量だった。
本来なら飛び上がって喜ぶところだったが,さっきまでの混乱で俺はまともな反応ができない。質の悪いワックスの匂いが床から立ちのぼって,今更鼻に流れ込んでくる。
手にした瓶を下げてぼんやりとしている俺に焦れたのか,キタンは突然手近の椅子を蹴り飛ばした。
「・・・これ持って,とっとと出て行きゃあがれってんだよ!どんな理由があろうと,今度うちの妹に手ぇ上げようとしやがったら,ただじゃすまさねえ・・・!」
厨房からキヨウが顔を出してこっちを見ている。兄貴のたてた音を気にして覗きにきたんだろう。ちらりと目線をそちらにやると,ひるみながらも,きっ,と視線を返された。鬼か蛇でも見る目つき。おいおい美人が台無しじゃねえか。
・・・どいつもこいつも,「きょうだい思い」か。ご大層なこった。
さっきまで湧き上がっていた怒りが消えたわけじゃないが,少し調子を取り戻してきていた。タダ酒も手に入った。生意気な女も黙らせてやった。首尾は上々だ,目ん玉ひんむいて猿みてえに怒ってやがる男の前に居る意味もねえ。
へら,とまた意味もなく笑って。
言われなくても出て行ってやるよ,なんてお決まりの台詞を吐いて。
踵を返して筋肉馬鹿の横をすり抜ける。ぺらぺらした俺のシャツはそれだけで風をはらんで翻り,胸元あたりに点々と酒の染みがついているのが目についた。カウンターを叩いたときにでも飛んだのか。黒い飛沫でついた汚れはまるで古い血のようで。
「てめえはな・・・狂ってる,ぞ」
すれ違った直後,背中に投げられた言葉。
そんなこととっくに知っている。俺を慕ってくる弟分を,騙して,辱めて,貶めて。だがな,狂ってなけりゃ今頃俺はのたれ死んでるところだよ。
振り向きもせず酒場の扉をくぐる。大きく床を蹴り付ける音だけが,最後に俺の耳に聞こえた。
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